理事長からのメッセージ
いのちが循環し、いのちが見える文化。それが有機農業。
金子美登(かねこよしのり)
特定非営利活動法人 全国有機農業推進協議会理事長
1948年、埼玉県比企郡小川町に生まれる。1971年に農林水産省農業者大学校を第1期生として卒業後、就農。以来約40年、故郷小川町の地にエコファームの先駆け「霜里(ルビ:しもさと)農場」を作り上げ、農薬や化学肥料に一切依存しない有機農業を実践。自給・循環・複合の有機農業を発展させるかたわら、就農を希望する研修生を多数受け入れてきた。1999年からは小川町町議会議員を務めている。
霜里農場(しもさとのうじょう)のHP
工業化社会の中で感じた「農的世界の幕開け」
私が有機農業を始めようと決心したのは1970年前後のことです。その同時期の1972年に、ローマ・クラブという学識経験者のグループが発表した『成長の限界』という提言書が出版されています。「今後の人口増加による食料と資源の枯渇、環境の悪化から、100年以内に人類の成長が限界に達する」という内容です。
当時の日本は高度経済成長のさなか。工業化が進む一方で重大な公害問題が露見してきた頃です。私は、このまま幾何級数的に工業化が進めば公害問題は避けては通れず、人間の営みの永続循環は不可能だと感じました。そして、そのほんの数十年前まではあたりまえに日本に存在した、身近な資源を使った「農的世界の幕開け」であると直感したのです。日本は工業に必要な鉱物資源を持たず、それを外国から買いまくるような社会です。しかし草、森、水、土、太陽という農的資源に関しては、こんなに恵まれた国はないのです。それを生かす社会や暮らしに切り替えれば、何も怖いことはないじゃないかと。
そして私は、1971年に霜里農場を開設し、草、森、水、土、太陽などを、徹底的にいかす有機農業を始めました。有機農業の基本は土作りです。広葉樹が落ち葉を落として、小動物や微生物が100年かけて1センチの腐葉土を作る。有機農業はそれを人間の手で、10年~20年に早める仕事です。そういう身近な資源や、山を含めた生物や水の循環を大切にした農業だからこそ永続するのです。だから私も山の落ち葉で堆肥を作り、コツコツと作物を作り続けてきました。「多くの収入は得られなくても、自然に感謝しながら慎ましやかに生きるのが、日本人の暮らし方だ」と信じて。
30年後、村の仲間が動いた!
それを続けた30年目の2001年。小川町の同じ集落で暮らす農家の先輩が私のもとへやって来ました。「金子さんと足並みを揃えて有機農業をやっていきたい」と言って。農薬や化学肥料を使った慣行農業をやっていた近隣の農家の人たちは、私の農場を、30年間ずっと見てきたんですね。そして「どう考えても、収量も品質も金子のほうが上で、しかも高い値段で消費者に買ってもらえている。それにみんな楽しそうにやっているじゃないか。一緒にやらせてくれ」と。
私にとっても、こんなに嬉しいことはありませんでした。かねてから「自分が有機農業でほどほどに食べられるようになったら、村と一緒に大きくなっていきたい」と願っていたからです。なぜなら、農家というのは村と大地が足場であり、サラリーマンではなくてフリーマンだからです。私自身も有機農業で食べられるようになるまで苦悶苦闘の日々でした。あの時期というのは、工業を中心として生産性と効率と金だけが重視され、日本が農業というものを切ってきた時代でした。そのなかで苦しみながら辿りついたのが、当り前の農業とも言うべき「有機農業」です。それを村の仲間たちと一緒にできるのですからね。
有機農業だからこそ得られる、生産の喜びと誇り
さっそくその年に、仲間たちは大豆を作り始めました。そして初めての収穫は「そういう安心安全な大豆を作ってくれる生産者を応援したい」という地元の豆腐工房が全量を即金で再生産可能な価格で買い上げてくれたうえ、次回の収穫もぜひ買いたいと打診してくれました。その20年ほど前から、私の農場では他の仲間が有機農業に転換した場合にも、作物を買ってもらえるしくみや販路を開拓してきたので、すぐに買い手がついたのです。
翌年は耕作面積を増やし、みんなの収入は倍になりました。本当に夢を見ているようだとも言われました。これで完全に、個々の農家が生産の喜びと誇りを取り戻したんですね。「人の健康を支える食べ物を作れば、買ってもらえるんだ」という手ごたえと自信が持てました。
3年目から始めた小麦も、地場の醤油メーカーが買ってくれることになりました。お米は、埼玉県内のリフォーム会社の社長さんが「社員に食べさせる」と言って、全部買ってくれています。そうやって買い支えてもらえることで、農家はどんどん有機農業に転換できるし、皆「また来年も頑張ろう」という覚悟と励みができて、今はもう農業が楽しくてしょうがない。跡継ぎの30代~40代の若い世代も張り切ってイキイキと働いています。
この成功には、私は二つのポイントがあると思っています。一つは、私たちの姿勢に賛同して、再生産を前提に買い支えてくれる販路がある=消費者がいる、ということ。そしてもう一つは、有機農業が「あたりまえの農業」であるということです。仲間たちは「なんだ、金子のやっていることは、昔はあたりまえにやっていたことじゃないか」って気がついたんですよ。そして、今ならまだかつての「あたりまえの農業」を知っている先輩がいるんです。だからスムーズに転換できたんですね。現在では、私たちの集落にある約20ヘクタールの田んぼと畑のすべてが有機農業に変わりました。実際に耕しているのは10戸ほどの農家ですが、賛同してくれた地権者は60軒にもなります。ここまで有機農業に転換できた集落はおそらく日本で初だと思います。その評価として、私たちは2009年に埼玉農林業賞「豊かで魅力ある農山村づくり」という賞もいただくことができました。
「いのちが見える文化」をとり戻す
人間の社会を1本の大木に例えれば、地上にある枝葉が都市や工業であり、地中で枝葉よりも茂っている根っこが農業や農村であると思います。先進国と言われている国は、たいてい根っこである農業農村を大事にしています。根のない国は、どう考えても枯れてしまうのですから。それをより多くの人に分かってもらうには、私は循環して永続する有機農業しかないと思っています。
何しろ、10年ぐらいの時間をかけて土ができれば、あとはその風土にあった種苗さえあればいいんです。全ての設計図は種の中にあるんですよ。人間は、自然というお母さんが、動物や植物という赤ちゃんを育てるお手伝いをちょっとするだけ。それで作物ができてしまう。遠い国から掘り出して運んできた石油も、複雑なことをして作った薬もいらないし、公害もない。
しかも毎年自然は千変万化します。今年がダメでも、来年は何かを変えて挑戦すれば挽回することもできる。自分の意思ひとつで、そういうプランが立てられる。家畜や作物は、人間が愛情をかければかけるほど、そっくりそれを返してくれますしね。その成果が消費者に喜ばれるだけでなく、人々の健康なからだをつくる素となるのです。
現在、私の農場は、私が思い描いた理想の7割ぐらいにまで到達しました。栽培した菜の花から食用油を作り、その廃食油(SVO)でトラクターやコンバインを動かすという段階まで来ています。それを村や町のレベルにまで広げて、一つのモデル地区を作りたいと考えています。
2006年には有機農業推進法も成立し、有機農業の第2世紀が始まりました。石を積むようにコツコツと取り組んできたことの一つの証です。都市や工業文明を中心にした社会の土台を、もう一度、農業農村という「いのちが見える文化」に戻していく時だと思います。それぞれが自分の大地を耕しながら、人とのつがなりを作っていく。それが認められ、やがて花開く。その循環こそが、有機農業であり人間の暮らしだと思っています。